スエズに関する質問

スエズ スエズ運河株について

スエズ運河株という物の存在がよくわかりません。スエズ運河を建設したのはフランス人技師だからすべてフランスが株を所有しているのではないのですか。イギリスはエジプトから株を買収したとなっているのですが、よくわかりません。また

  スエズ運河株についての詳細


スエズ スエズ運河による生物の移動

スエズ運河が開通したことによって地中海の生き物が紅海に生息圏を広げた例はあるでしょうか?紅海から地中海でもいいのですが。たとえば地中海の蛸が紅海でも取れるようになったなど。

  スエズ運河による生物の移動の詳細


スエズ バルチック艦隊のスエズ運河通過

日英同盟が締結されていたのに、バルチック艦隊の一部は英国が統治していたスエズ運河をとおり日本に向いましたが英国はなぜ妨害しなかったのでしょうか?もしかして「自由航行条約」が関係していたのでは

  バルチック艦隊のスエズ運河通過の詳細


スエズ スエズ運河には何故水門が必要なのでしょうか

運河についての質問です、宜しくお願いします。スエズ運河とか、パナマ運河とかありますが、これは川のようにつながっているのかと思ったら、水門があって水を入れたり抜いたりしていることを最近になって知りましたが、何故水門

  スエズ運河には何故水門が必要なのでしょうかの詳細


スエズ スエズ効果について

スエズ効果とは何か教えてください。もしくは、スエズ効果について解説している書籍などあったら教えてください。最近、地球温暖化について調べている過程で、スエズ効果によって説明されている箇所がありました。(地球上の二酸化炭素が近年人為的に排出

  スエズ効果についての詳細


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スエズ勅命

こんにちわー 南米探検から戻ってきて最近スエズ勅命やってます。 海事勅命しかまだやってません。 クエストはコレ テーマ : 大航海時代Online - ジャンル : オンラインゲーム

スエズ勅命

スエズ旅行記

カイロ(エジプト)〜アカバ(ヨルダン) 1988年8月(by みどりのくつしたさん)

スエズ
《船でアカバ湾を渡り、アムステルビールで頭がくらっとする》

ナイロビからカイロへ飛んで、最初はタハリール広場に面した「クレオパトラホテル」に居た。
が、フロントの男が変に愛想が悪い。

だからというわけではなくて、安くて愛想のいいスタッフのいる、クーラーのがんがん効いた「カールトンホテル」に移った。
僕はアテネで買ったアテネ〜ナイロビの往復切符を持っている。
エジプト航空の切符で、途中カイロに往路復路ともにストップオーバーが出来るという条件付きだ。値段は98000ドラクマ(9万円)。
実はこれは一番安い切符ではないのだが、買った理由がある。
それは「ギリシアの両替証明書問題」の名で、切符の買い方シリーズの一部としていつか書くこともあるだろう。
この切符でナイロビに行く途中カイロで降りて、エジプトはぐるんと一回りした。
今度ナイロビからカイロに飛んで来た理由は、見残したアレキサンドリアやサッカラのピラミッド群を見ることだ。
それともうひとつ考えなければいけないことがあったのだ。
この切符をこのまま使うとカイロからアテネまで、飛行機で行くことになる。
ところでアテネには僕はあまりいい印象がないのだ。

アテネは完全な観光都市で、見るところさえ見てしまえばそれでお終い。
ゆっくり滞在するというタイプのところではない。

ギリシアに来た人はアテネにちょっといるだけで、エーゲ海のリゾートに渡ってしまうのが普通だ。
だからアテネの宿のほとんどが一時滞在のドーミトリイタイプで、一泊500円ほどで泊まれるけれどプライバシーは無いといっていい。
シングルの部屋も捜せばあるけれど数が少ない。
特に今は8月の旅行シーズンなのだ。
ドイツ人を初めとするヨーロッパ人のリゾート客がどっと押しかけていて、とんでもなく混雑していることが高い確率で予想出来る。
切符は使うためにあるので、切符に縛られてはいけない。

出来るだけ、アテネを通らずにロンドンまで足を運びたいものだ。
とすれば、ヨーロッパにはいるためには、イスタンブールが起点となるだろう。

それから東ヨーロッパに足を伸ばすつもりだが、中東を通ってイスタンブールまで陸路で旅行出来るだろうか。
以前イスタンブールにいた時に、シリア〜ヨルダン〜イスラエル経由でエジプトまで行く計画を考えたことがある。

シリアのビザを取るためには日本大使館からの推薦状が必要なので、実際一度は決意してイスタンブールの日本領事館を訪ねたことがある。
ところがその日が丁度4月29日の天皇誕生日で、平日なのに日本大使館だけは業務を休んでいた。

気勢がそがれてシリアへ行くのは棚上げにした。
それが理由で、一気にトプカピバスターミナルからカッパドキアへのバスに乗ったのだ。

ナイルヒルトンで両替をして、カイロの中心タハリール広場を歩いていた時に日本人学生3人に出会った。
彼らは日本人旅行者の間で有名な安宿「オックスフォード」に泊まっているとか。

一緒に飯を食いながら、このルートのことを話す。
「西本さん、それは無理なルートですよ。僕もイスタンブールにいた時に陸路で来ようと思ったのですが、ヨルダンは日本人の入国が出来ないんです」との返事が戻ってきた。
本当なのだろうか?
理由を聞くと「以前『地球の歩き方』にレポートを送った奴が、入国管理官を馬鹿だと書いたので役人が怒って日本人に意地悪してるんです。それが理由なんですよ」という余り信用出来ない説明を持ち出す。

彼らは世界中どこにでもいる日本人旅行者の典型で、日本人宿に留まり、日本人同士でうわさ話や自慢話をしているうちに、きっと何が本当で何が嘘なのか解らなくなっているのだろう。

それにこの話が万が一本当で入国を拒否されても、それも面白い話の種だ。
とにかく旅先の噂話を信じちゃ駄目だというのが基本。
ヨルダンへ突入することを決める。
ヨルダンのビザを取るために、タハリール広場からナイル川の反対側のドッキ地区にあるヨルダン大使館へ歩いて行く。
ここは大使館の多いところで、ブルガリア大使館も同じ地区にあるはずなのだが、調べた住所に行くと大使館が行方不明だ。
ブルガリアのビザはもっと近くに行って取ればいいことだ。

無理に大使館を捜す必要はない。
隣の国でビザを取るというのが長期旅行者の原則なのだから。

ヨルダン大使館に行くとゲートのところで門衛のようなおじさんが受付をしていた。
手数料が31.5エジプトポンド。
1エジプトポンドは約60円なので1890円。
細かいのがないので35ポンドを渡す。

午前中に申請して午後1時半にはビザがもらえるということだ。
時間つぶしにカイロタワーに上ったりする。

午後1時半に大使館に行くと、ビザをくれたが3.5ポンドのお釣りがない。
たかが200円だがここで負けたら、駄目だ。

それで根性を決めて大使館に乗り込んで、中の部屋でドアが開いているところを覗きまわった。
役人を見つけてビザ代のお釣りがないと言うと、質問したりせずにあっさり自分のポケットからお釣りをくれた。
よく分からない話だが、この程度のことは旅をしているとよくある話だ。
前回カイロにいた時、4つ星の「クレオパトラホテル」のロビーで日本人技術者に会って一緒に食事をしたことがある。
ヨルダンで働いていた彼から「アカバ湾を渡ってヨルダンへ入国」というルートを聞いていたので、この道を行くことにする。
常識から言ってこのルートが存在するのは当然だが、頼りにしている「アフリカ・オン・シューストリング」にもこのルートの詳しい説明がない。
この本では「スエズ〜アカバ」の船旅ルートの説明が中心になっている。
まあ、そこに船があるかぎり、行けば何とかなるだろう。

朝5時に起床して荷物をまとめる。
泊まっていたカールトンホテル(シングル1泊21ポンド、つまり1260円)のレセプションに頼んでおいたタクシーがホテルの前に6時に来た。
タクシーでシナイバスターミナルに行って切符を買う。
窓口でどこからアカバ行きのフェリーが出るのか聞こうとするが、英語もフランス語もしゃべらないので要領を得ない。
個人でエジプト旅行をすると言葉が通じないというのがなかなか大変な問題なのだ。
どこで降りればいいのか解らないが、とにかく紅海方面へのバスは1本しかない。
バスの最終地点、ターバまでの切符を買う。25.5エジプトポンド。
バスの出発まで待合室でTVを見ながら待っていると、日本の女子プロレスを放送している。
懐かしい長与千種とダンプ松本の試合だ。
バスの出発が7:10AM。
かなりくたびれた大型バスだが、一応クーラーもきいている。
以前に乗ったルクソールから紅海の町ハルガダ、ハルガダからスエズまでのバスとは大違いだ。
この時は満員バスに5時間立ちっぱなしだったのだ。
リクライニングシートで快適だと喜ぶ。

スエズ運河を地下トンネルで越えてシナイ半島に入り30分ほどたった。
そのまま紅海の東岸を走っている時、突然バスが停車した。

その後バスから降ろされた。
どうやらバスが壊れたらしい。

こういった所では何も頼れるものはない。
すべてを受け入れるしかないのだ。

このままひょっとして明日の朝まで待つのかしらん。
チョコレートを買っといてよかった。
そう覚悟を決めて、周りの砂漠を見回している。
と、30分ほどして乗り換えのバスが到着した。

バスが壊れるなんてよくあるのだからバックアップ体制もあったのだろうか。
それともたまたま通りかかったバスなのだろうか。

こういう所では考えても仕方ない。
そういえばこのバスはシナイ山にあるという聖キャサリン修道院に寄るということなのだから、神様が使わしたバスなのだろう。
それが一番納得の行く説明なのでそういうことにしておこう。
その聖キャサリン修道院への別れ道へは午後2時半頃に着いた。
バスを降りた所にある岩で出来た建物でちょっと休む。
建物の壁をぐるりと取り囲んで控壁があるのは不思議な感じのする建築物だ。
こんなに頑丈なのはよほど強風が吹くのだろうか。
ここで乗客の半分程が下りた。残っているのは7人ぐらいだ。

そのまま荒涼とした何もない砂漠の道を走っていくと前方に突然海が見えた。
これがアカバ湾。
バスはアカバ湾に沿って北へ走る。
朝早く起きたので眠くてうつらうつらしていると、大きな船の泊まっている港の前でバスが停車した。
乗客の1人がここで降りたが、残りの人たちはバスに乗ったままだ。
ここで降りるのか確かめようとして、港を指さして「ターバ?」と聞くが、どうやら違うらしい。
前方を指さすので、ターバはもっと行った所のようだ。
このバスに乗る人たちは当然僕と同じルートでアカバに渡るものと思いこんでいた。
言葉が通じないので、とにかく人数の多い方に着けばいいという日本人の付和雷同意識が出てしまったのだ。
それが間違いだった。

そのままバスは走り続け、終点に着いた。ここがターバだ。
おやおや、高いビルの立ち並んだ大きな町が見える。

バスを降りた乗客はぞろぞろとその町へと進むのだが、その前には金網の張った検問所らしいものがある。
イメージとずいぶん違う。

「船はどこから出るんですか?」と近くにいたバス会社らしい人に聞く。
「ここから船は出ないよ」
「ここはターバで、ここからアカバ行きの船が出るんじゃないですか」
「ターバだけれど、向こうはイスラエルのエイラットだ。船が出るのはヌゥエイバだよ。ここに来る途中に大きな港があっただろう?」

しまった!やはりさっきの所がそうだったんだ。
「どこか泊まる所はありませんか?」
「国境を越えてエイラットに行けば宿はあるよ」
確かにそうだ。
そうなのだけれども、僕はヨルダンのアカバに行きたいんだ。
イスラエルとエジプトを除くアラブ諸国は敵対しているので、イスラエルの入国スタンプがあればヨルダンへは入国出来ない。
イスラエルはそれがよく解っているので、別の紙に入国スタンプを押してくれる。
しかしイスラエルの入国スタンプが無くてもエジプトの出国スタンプにある地名でイスラエルに入ったかどうか当然解るわけだ。
ターバでのエジプトからの出国スタンプがあれば、エイラットでのイスラエルの入国スタンプが無くてもイスラエルに入ったことはミエミエ。
つまり、ヨルダンへは入国出来ない。

ターバというのはただ国境を越える場所で、宿も何も無い所なのだ。
どうしてもヌエイバに戻らなければならない。

バスはもう無い。
乗り合いタクシーでもと思うが、一緒に行く人がいない。

タクシーを借りきるしか仕方ないが、今までのやり取りで足元を見られてしまった。
こうなった時のアラブ人は強い。

往復のタクシー代として60ポンドとふっかける。
交渉してもこちらの立場が弱過ぎる。結局45ポンド(2700円)でヌエイバに戻ることにした。

夕闇迫る岩と砂のアカバ湾沿いの道を飛ばして45分。
でも、なかなか気持のいいドライブだ。

過ぎ去ったことをいちいち悔やんでいては旅行なんか出来ない。
これは僕の慎重さが無かったのがもともとの原因なのだ。

ヌエイバは大きな港とそれにくっついたホテルと食堂のあるだけの雑然とした町だ。
2軒当たって、看板も無いホテルに部屋を取る。
E£17.25で2階のトイレ・シャワー付きのぼろぼろのシングルルームだ。
国境はどこもこういうものだ。
しかし、やっとたどり着いた港町では当然ビールをぐっと引っかけたい。
ところがどこにもビールが売ってない。
何軒か当たって、やっと町はずれの「フイッシャーマンズ・クラブ」にビールがあるという話を聞き出す。
真っ暗な中をビールの魅力に曳かれてえっちらおっちら歩いて行く。
途中で道端に何か暗いものが横たわっているのを見つける。
覗き込むと、その物体はゆっくりと僕の方に頭を向けた。
らくだ君だ!
「らくだ君。今晩わ!」とていねいにお辞儀をした。

更にどんどんビールのあるという所へ進む。15分ぐらい歩いてやっと着いた。
さて「フイッシャーマンズクラブ」に押しかけて行ったが、陰気なおじさんが出て来て「ビールは無い」と断られてしまった。

エジプトは禁酒国という訳ではないのだからどうも納得が行かない。
まあいいさ。また歩いてホテルのそばのレストランへ帰る。

途中でまたらくだ君に話しかける。
「らくだくーん。ビールが無いんだってさ!」
結局この日の夕食はチキンにライスを付けて紅茶を4杯飲んで3.5ポンド。
次の朝はホテルの外のバスの音などがうるさくて6時に起きてしまった。
荷物をまとめて外に出て、乗船ゲートの方向に歩いて行く途中で日本人に会った。
いやぁ、本当に日本人ってどこにでもいるんだから。
彼はやはりイスタンブールからシリア・ヨルダンと渡って来たという話だ。
僕も船に乗らなければいけないし、彼はバスに乗らなければいけないのでちょっと話しただけで握手をして別れる。
ゲートを入ってピンク色の外国人用の出国カードに記入する。
その後荷物をチェックしてイミグレーションを受けたあとで切符を買いに行くという順番だ。
銀行の両替証明書を見せなければいけないのでE£35を換えて切符を購入する。
乗船に結構時間がかかる。
乗り込むのはほとんどがアラブ人だ。
見渡すと他に旅行者らしいのはフランス人の女性とその娘らしい3〜4歳の女の子。
その2人にアラブ系の男がいつも一緒だ。
乗り込む時にパスポートを預けるのだが、よく見るとアラブ系の男もフランスのパスポートだった。
この3人とは切符を買う時からちょっと話はしていた。
切符を買ったりする要領が解らない時は、互いに教えあったりしていたのだ。

さて、この国際フェリー目の見える所で働いているのはほとんどフィリピン人船員だ。
船室に上がって席に着くと、向こうから話しかけてくる。
2年契約で働いているのだそうだ。
フィリピンの人たちは中近東への出稼ぎが多いらしい。
でも、日本と違って大家族で互いに助け合っているのだ。
日本人のような海外出張中に奥さんが不倫をして勝手に離婚されていたなどというよくある心配は無いのかもしれない。

船はわずか2時間ほどでアカバ港に着いた。
アカバ港は巨大なクレーンが林立する大きな港だ。

船を降りてイミグレーションに行くとパスポートは別の事務所で渡すといわれる。
例のフランス人3人と僕で事務所を捜すのにまず苦労した。

散々歩き回って、やっと事務所を見つけた。
中で20分ぐらい待っていると、鼻髭を生やしたエライさんが出て来た。

彼と一緒に入ってきたカトリックの尼さんに僕の椅子を譲れと言われた。
「イエス、サー」と爽やかに従う。
役人には常に従順であること。これも長期旅行者の原則だ。
英語で簡単な質問を受けただけで、目の前でパスポートにスタンプを押してくれた。
それからフランス人と一緒に両替をする。
港の両替所によれば、どうやらJD(ヨルダンディナール)は420円程度だ。
残っていた国外では屑という噂のエジプトポンドもヨルダンディナールに変わった。
ここからフランス人と一緒にタクシーで町に行くことにした。
町へ10分ちょっと乗っただけなのに2JD(840円)もする。
割り勘なので僕は0.5JD払っただけだったが、これはなかなか物価の高そうな所だぞ。

フランス人は彼らのガイドブックにある「ビーチホテル」に泊まることにする。
僕も一緒に泊まろうと誘われたが、1泊シングルで3.5JD(1470円)。

タクシー代に比べて宿代はべらぼうではないが、出来るだけ安く泊まりたい。
町を歩いて訪ね回ったら、1泊2ディナール(840円)のホテルを見つけた。
これなら納得の行く値段だ。
ホテルのマネージャーに道を聞いて、海岸沿いにあるバス会社を訪ねる。
明日のアンマン行きのバスの予約をとる。
10時アカバ発で午後の2時半にアンマン着という話だ。料金は3JD。
フランス人の女性が「明日一緒にタクシーを借りきって、ペトラの遺跡に行きましょうよ」と言ってた。
けれど、人と一緒に旅するのはそんなに趣味じゃ無いのだ。
1日だけならいいが、2日も人と付き合うのは面倒だ。
歩いていて見つけた「レストランアリババ」でシシカバを一串にサラダを取る。
もちろんビールを頼む。「アムステルビール」が1本で0.85JD(360円)。
一口飲んだだけでくらっと頭に来る。
このビールは強い。
いやいや、ひょっとするとエジプトで飲んでいた「ステラビール」が弱過ぎたのかもしれない。

そういえばただ冷えていたという思い出しか無いものね。
ビールを大びんで2本も飲むとすっかり出来上ってしまった。

アンマンに急ぐ理由はイスラエルへ入国するための西岸パミットを入手するのにどの位の日数かかるか解らないからだ。
とにかくパミットの申請をしてしまって、その待ち時間にペトラの遺跡に行ったりすればいいだろう。

シリアのビザを取るにも日本大使館からの推薦状の入手が必要で、結構事務手続きに時間がかかってしまう。
さらには東ヨーロッパに突入するのにドルキャッシュを入手しなければならない。

情報ではアンマンでは簡単にドルを買えるということなのだ。
これも確かめなければならない。

地図もガイドブックも無いがそれはアンマンで入手出来るはずだ。
ヨルダンからイスラエルに入り、またヨルダンに戻る。

シリアに入国しパルミラの遺跡を見て、ユーフラテス川に出会う。
それからアレッポ経由で懐かしいトルコに入る。

ヨルダンのペトラの遺跡をはじめ、ここは遺跡の宝庫だ。
これが僕が後にマヤやインカの遺跡を訪ね歩き「世界の遺跡王」と呼ばれるようになった、その始まりだった。

馬鹿な日本人やいいかげんな日本のガイドブックが流している「ヨルダンには入国出来ない」という根拠のない嘘を打ち破った。
日本人の常識を離れて初めて、本当の旅が出来るのだ。

これからは本物の旅だ。
だって、ずっと持って旅していた有名なガイドブック「アフリカ・オンナ・シューストリング」からはみ出してしまった。

これからは中東。これからの旅にはもう僕の手元に旅行案内書がないのだ。

  • http://homepage3.nifty.com/worldtraveller/asia/aqaba.htm

  • 【旅行時期】1988/08/~1988/08/
    【エリア】アカバ
    【テーマ】世界一周
    【投稿者】みどりのくつした

    1962年のパリだより【748】ヨーロッパ文明を支える市民感覚に新鮮な目を向けたい(by ソフィさん)

    スエズ
    1962年1月18日(木)

    そろそろ滞在予定期間12カ月の半分が過ぎた今、これからの行動パターンについて反省をなすべきタイミングが来ている。

    私は、ヨーロッパ滞在での関心の対象を、ここに暮らす普通の人の、日常の生活姿勢・感覚に向けようとしていた。

    とくに傑出したものに対する関心と同時に、普通の当たり前のものに、彼らの文化の本質が見えるだろうと考えていたのだった。


    今まで我が国は、「和魂洋才」を目指して、西洋の技術を学ぼうとしていた。

    しかしそれでは西洋に追いつくことができても、追い抜くことはできない。

    彼らの技術を生み育てた背景にある魂を、生きた姿で捕えてみたい。

    それが、私の欧州滞在の目的だった。


    余力があれば、19区、20区など、あまり知られていないパリの庶民の街もゆっくり味わいながら歩いてみたい。

    とは言っても、ルーブルやヴェルサイユ宮殿など、パリに暮らしながらゆっくり見ていないところが多過ぎる。


    百年前に日本からやって来た文久2年の欧州視察団は、実にたくさんのものを見ている。

    好奇心に燃え上がり、見るもの全てが面白くてたまらなかったのだろう。

    今と比べれば、ヨーロッパは驚くほど遠い存在だったに違いない。

    当時は外輪の蒸気船と帆船とを合わせた船で、スエズ運河の開通前だから船を乗り換えながら、日本から欧州まで二ヶ月半を要している。


    交通手段だけでなく通信手段も未発達だから、日本にいる間の西洋に対する情報は、非常に乏しかっただろう。

    だから見るもの聞くもの、恐ろしく新鮮な感動に満ちていたに違いない。


    咳が止まらないので、一日部屋に閉じこもる。

    【旅行時期】1962/01/18~1962/01/18
    【エリア】パリ
    【テーマ】歴史・文化・芸術
    【投稿者】ソフィ

    1962年のパリだより【745】100年前は日本から2ヶ月半かけて欧州にやって来た(by ソフィさん)

    スエズ
    1962年1月15日(月)

    慎重を期して、もう少しの間休養を続けることにする。

    何しろ命が助かってから、まだ3年しか経っていないのだ。

    覚悟が決まったので、今日約束があったアステフ(フランス政府の窓口)と、ステュップ(プレストレス・コンクリートの特許を持っている会社)に早速電話で断わりを入れる。

    もう電話は、臆することなく、スラスラとかけることができるようになっている。


    文久2年に日本からやって来た使節団は、1862年1月22日(旧暦文久元年12月23日)品川を船で出発し、スエズ-アレキサンドリア間は鉄道を使ったが、再度船に乗って、1862年4月3日(旧暦文久2年3月5日)マルセイユに着いた。

    ほぼ2ヶ月半の行程である。

    日本からスエズまでの船は、「オーディン号」なるイギリスの軍艦で、長さ191フィート(58m)、幅42フィート(12.8m)、トン数2000トン。

    30ポンド砲8門と12ポンド砲24門を備え、乗務員は、310人。

    この船に、日本使節団38人が乗った。


    スエズ運河は、1859年着工、1869年完成だから、使節団が通った時は工事着工直後だったろう。

    この工事にはエジプト人150万人が従事し、そのうち2.5万人がコレラなどによって死んだと伝えられる難工事だった。

    【旅行時期】1962/01/15~1962/01/15
    【エリア】フランス
    【テーマ】歴史・文化・芸術
    【投稿者】ソフィ

    ナイルの賜物「エジプト〜カイロ」(by Suyo recepcionistaさん)

    スエズ
    ■□エジプト・アラブ共和国□■

    ○人口:7257万人(2006年現在)
    ●首都:カイロ
    ○人種:アラブ人、少数のヌビア人
    ●言語:アラビア語
    ○通貨:ポンド(£E)

    ☆入出国☆
     エジプト入国にはビザが必要(空港にて取得可)。パスポートの有効残存期間は、6ケ月プラス滞在期間。

    ☆時差☆
     日本との時差は、−7時間。サマータイムの実施期間は、−67時間の時差になる。サマータイムの実施期間は、4月の最終金曜から9月の最終木曜日まで。

    ☆祝祭日☆
     1/7:コプト教クリスマス、3/20:マウリド・アンナビー(預言者ムハンマド生誕祭)・注、4/25:シナイ解放記念日、4/27:シャンム・イン・ナスィーム(春香祭)・注、5/1:メーデー、7/23:革命記念日、9/30〜10/2:イードル・フィトル(断食明けのお祭り)・注、10/6:軍隊記念日:12/23:戦勝記念日、12/8〜11:イードル・アドハー(犠牲祭)・注、12/29:イスラム暦の新年・注、注=移動祝祭日(2008年)

    ☆気候☆ 
     大きく分けて4つあり、アレキサンドリアやデルタなど地中海沿岸の地中海性気候、カイロ周辺の半乾燥気候と半砂漠気候、カイロ以南と東方砂漠、西方砂漠の砂漠気候。3〜5月にはハムシーンと呼ばれる砂嵐が吹き荒れる。砂漠だけに灼熱のイメージだが、6〜9月頃にかけては40℃を越す日も多いが、1月〜3月頃の朝夜はかなり寒い。

    ☆概要〜カイロ☆
     カイロは、エジプト・アラブ共和国の首都でアフリカ最大の都市である。人口の約26%が生活するカイロは、地中海の香りと東洋の魅力をミックスした都会的な都市で、ファラオ王朝、ギリシャ・ローマ時代、キリスト教及びイスラム教の歴史的建造物が共存する町であり、世界で最も混泥という言葉が似合う街である。
     西にリビア、南にスーダン、北東にイスラエルがあり、北に地中海、東は紅海に面している。南北に流れるナイル川の河谷とデルタ地帯のほかは大部分が砂漠であり、ナイル河口の東に紅海と地中海を結ぶ有名な”スエズ運河”がある。

    【旅行時期】2006/02/18~2006/02/20
    【エリア】カイロ
    【テーマ】世界一周
    【投稿者】Suyo recepcionista

    『ラサから青蔵高原を走って、唐古拉(タングラ)峠(海抜5,231m)を越えて、30時間以上かかって、ゴルムドへ到着』(by みどりのくつしたさん)

    スエズ
    1999年7月30日。
    本当は昨日、ゴルムドへ旅立つ予定だった。

    ところが、中国人経営の旅行社「西蔵大自然国際旅行社(TIBET NATURE INTERNATIONAL TRAVEL SERVICE)」の「Mr. Yong Liang」に騙されて、切符を受け取れなかった。

    しつこく交渉したところで、中国人はウソツキで鉄面皮なので、「切符はもらえない!」と諦める。
    人生、一番いいのは、諦めが早いことだ(笑)。

    そのあと、ラサの長距離バスターミナルで切符を買おうと窓口へ行った。
    ところが、「当日の出発前に買え」と言われてしまう。

    なぜ前日に切符が買えないのかわけがわからないが、とにかく中国だから、諦める。
    こういう風に諦めが早いのが、悩まないコツだ。

    というわけで、7月30日の早朝に、バスターミナルへ行った。
    泊まっていた「キレーホテル(吉日旅館/Kirey Hotel)」からバスターミナルまで、タクシーで10元。

    僕は気合を入れていたので、チップを2元渡した。
    バスターミナルの窓口へ行くと、切符を売ってくれた。

    座席番号が24番、上臥というのだから、二階建ての寝台バスの上の席なのだろう。
    料金は210元プラス保険料が10元で、220元。

    バスに乗り込むと、この24番という席は、バスの後ろの平らになった場所にごろ寝する席だった(涙)。
    最悪といえば最悪だが、もうとにかく、ゴルムドへ行けさえすればそれでいいと覚悟をきめる。

    海外個人旅行では、とにかくいろいろ考えないほうがいい。
    現実をそのままに受け入れて、「諦める」ことが大事なんだ。

    まあ、僕は、エジプトでハルガダからスエズまでのバスの中で、立ちっぱなしで移動したことがあるからね。
    その時は、「身体を横たえさえできたらいいのに…」と思ったものだ。

    ゴルムド行きのバスでは最初から横になっているのだから、楽といえば楽だろうさ。
    バスは午前8時35分に出発した。

    出発した時点で、席が空いていたら、その席へ移動して自分のものにしていいようだ。
    僕の隣で寝ていたチベット人2人が前方の席へ移動した。

    これで、5人のスペースが3人で使えるわけだ。
    「これは楽だ♪」と、喜んだとたん、バスターミナルを出たところでバスが止まる。

    そして、人がドドッと乗り込んでくる。
    ま、これは、正規の料金を払わない客に決まっている。

    多分、運転手とかその上の共産党員の副収入になる、定員外の乗客だね。
    これで、僕の隣のスペースも人で一杯になり、5人の席に7人が寝てしまう(涙)。

    バスの通路も人間と、彼らが持ち込んだ荷物で埋まっている。
    これはこれは…。

    でも動けばいいと思ったとき、バスはガソリンスタンドへ。
    本格的に走り出したのが、午前9時過ぎになる。

    町を出るとすぐに高原へ入ったが、まともな道はなくなった。
    少し踏み固められた部分があって、そこが車が通る道になっているようだ。

    しかし全体としては、高原はぬかるみ状態。
    後輪を湿地に踏み入れてしまった。

    バスの後輪が空回りをして動けないので、乗客は全員降りる。
    バスを軽くして、バスを押す。

    そこを写真に撮った。
    ついでに「青蔵高原に立つ世界旅行者」という写真を撮ってもらった。

    あとで考えてみると、めったに撮れる写真ではないので、貴重なものだよ(笑)。
    バスにはトイレが付いてないので、出来るだけ水を飲まないようにしている。

    ただ、乗客はそんなことを気にする人は多くないわけで、トイレをしたくなった人が声をかけてバスを止める。
    そのときに、他の乗客も連れションをするわけだ。

    バスが止まったときに乗客を見ていたら、日本人らしいカップルも居た。
    だが、愛想が悪くて、声をかける気もしなかった。

    この時期、高原では道路工事が多かった。
    バスが、その工事を避けて迂回すると、ぬかるみにはまる。

    乗客がバスを降りて軽くなったバスは、一気に乾いた地面まで移動する。
    それを、乗客が追いかけていく。

    その繰り返しだ。
    青蔵高原には、小川が流れ、湿原が広がり、ヤクや羊が草を食んでいる。

    天気もいいし、なかなかのどかな景色なんだ。
    ローカルバスで青蔵高原を行くのも、なかなかいいじゃないか(二度とはいやだけれど)と感じる。

    ところがそこに、豪快な乗り物が出現した。
    後輪4輪、前輪2輪のツアートラックだ。

    ドイツのトラックらしくて、ものすごい馬力で、豪快に水溜りを通過していく。
    見た感じでは、前方半分が椅子席で、窓からは白人男女が見える。

    窓のない後方半分がベッドになっているようだ。
    僕の乗っているバスの頼りないエンジンに比較すると、全くレベルが違う。

    ドイツトラックは力強く、水溜りを無視して走ってく。
    いやはや、豪快そのものだね。

    このあと、中国からパキスタンへのクンジュラブ峠でも、欧米人のツアートラックを見た。
    それも、トラックに座席が作り付けになっていて、白人美女が乗ってたものなー(笑)。

    欧米人と日本人の旅行者の感覚は全く違うよ。
    日本人は、公共バスで辛さに耐えたり、こっそり現地人の乗るバスやトラックに乗せてもらったりする。

    欧米人は、金をうんとかけて、乗り物を強力に改造して、強引に通過する。
    日本人のように、こっそりとうまく立ち回るのではなくて、金をかけて、許可を得て、堂々とやるんだから(笑)。

    午後1時40分に昼ごはんの休息があった。
    が、下手なものを食べてお腹を壊したら悲劇なので、お茶を飲んだだけ。

    バスの出発前にトイレに行く。
    トイレ使用料が5角。

    日本女がお金がなくて困っていたので、5角あげた。
    でもこの女は、ゴルムドに付くまで特にお礼を言うわけでもなかった。

    バスは、サスペンションが柔らかで(つまり、へたれていて)、ちょっとしたでこぼこ道で大きく揺れる。
    一度、大きく車体が傾いて、バスが横倒しになりそうになった。

    その時は、バスの乗客全員が、「オーッ!」と叫び声を上げた。
    車体が元に戻った時は、拍手が起きたよ。

    夕食の休息もあって、中国人、チベット人の乗客はどんどん食事を取る。
    しかし、僕はトイレのことが心配で、このときも軽く水分を取っただけだ。

    朝食をとってない上に、昼食、夕食も取らなかった。
    翌朝も食べなかった。

    ラサでバスに乗る朝から、ゴルムドへ到着するまで、断食していたわけだ。
    バスの中で横になっていると、急な坂ではバスのエンジンが一生懸命がんばっている振動が響く。

    僕が思うのは、なんとかゴルムドに着くまで、エンジンやクラッチが持って欲しいってことだけ。
    明け方になって、どこかで休息をとったかもしれないが、記憶にない。

    翌日の午前11時55分に分水嶺を越えたようだ。
    これが青海・チベットハイウェイの唐古拉(タングラ)峠(海抜5,231m)だったのかもしれない。

    ただ、ボーッとしていたので、確認はしてません。
    途中にはいろんな峠があるだろうしね。

    これがタングラ峠でなくても、僕は青蔵ハイウェイを通っている。
    だから、タングラ峠を通過しているのは間違いない。

    ネットで調べると、道路の方が、青蔵鉄道の唐古拉峠(海抜海抜5,072m)よりも高い。
    どちらにしても、僕は5千2百メートルを超すタングラ峠をローカルバスで通過している。

    だから、鉄道旅行よりも高いところを通っていることで、自慢が出来るわけだ。
    この峠を越えたあとは、下り坂が続き、バスも順調にひた走る。

    道路の横には流れの速い川が岸を削って、垂直の崖が見えた。
    平原にはいって、低い町並みが見えてくる。

    これがゴルムドだった。
    到着は時計では夕方になったが、到着時間を記録する気力がなかった。

    おそらく、午後5時くらいではなかったかな。
    そうだとすると、ラサからゴルムドまで、ローカルバスで32時間程度かかったことになる。

    午後5時に着いたとしても、北京時間だ。
    ゴルムドはまだまだ明るかった。

    乗客は、ゴルムドの手前で、次々にバスを降りて行く。
    バスターミナルまで乗っていたのは、ほんの数人のバックパッカーだけだったよ。

    このバスは、故障したら何日かかるかわからないと噂されていた。
    ラサで聞いた話では、2泊3日も珍しくないとか。

    しかし僕の乗ったバスは、いつ故障しても不思議ではない様子だったが、なんとか走ってくれた。
    そのことについて、神に感謝の祈りを捧げる。

    どんなにお金を積まれても、このバスには、2度と乗ることはないだろうけれど。
    青蔵鉄道ができた以上、外国人観光客でわざわざローカルバスに乗る人間なんて、もういないだろう。

    そういう意味では、僕はバスに乗ったと自慢話が出来る。
    長期旅行者にとっては、これって、とってもおいしいことなんだよね(笑)。

  • http://homepage3.nifty.com/worldtraveller/across_asia/lhasa_golmud.htm

  • 【旅行時期】1999/07/30~1999/07/31
    【エリア】青海省
    【テーマ】ひとり旅
    【投稿者】みどりのくつした